私、しごと、暮らし

私、ケアマネやってました。。

そこには生活があったのです。

以前、担当していた90代夫婦のご自宅。

そこはかなり山深い所に家がありました。

ポツンと・・・のロケ隊が来そうな場所。。

 

ふもとの集落から車でず~っと上に上がって

いきます。途中、崖がいくつもあり、もし

対向車が来たら、どこまで下がればいいの

と思うほど、冷や冷やする道。

もちろん携帯の電波は途中から通じません。

 

ある時、なぜこの場所に住んでいるのか、

女性に尋ねてみました。

 

ご主人の祖父にあたる方が、水が多いこの

土地に住まいを決め開墾し生活してきた

のだそうです。今はすべて山になって

しまったのですが、そこには辺り一面、

田んぼが広がっていたのだそう。

田んぼだけではなく、茶畑や野菜、果樹

などたくさんの物が植えられ、そして、

たくさんの人が住んでいた。私が訪問

する時は、その夫婦の家が終点だった

のですが、昔はもっと上のほうにも人が

住んでいたとのこと。

 

道をいく途中、そういえば、石が積み

上げられた壁みたいな物があったり、、

そこには昔家が建っていたのでしょう。

 

その土地で、農業や養蚕をし、子供を

育て暮らしてきた。それでも生活が

苦しい時はご主人は、都会に出稼ぎ。

みんな汗水垂らしてがんばってきた

場所なのです。春は威勢のいいタケノコ、

秋はむっちりとした栗、そして季節ごと

の甘い果樹。たくさんの自然の恵み、

楽しみがありました。目の前の生い茂った

山は、昔から荒れた山などではなかった。

私にとって衝撃でした。

 

住む人がだんだんと少なくなり、残って

生活していた人も高齢化し土地は手入れが

されなくなると、荒れはて、まるで誰も

足を踏み入れたことがなかったかのような

山となります。

 

今や山奥となり、病院に行くのも不便。

人もあまり来ない寂しい場所。

ご主人が亡くなり、一人になった女性。

それでも代々守ってきたこの土地、

古くなった家はたくさんの思い出があり、

離れがたいものがありました。

 

癌が発覚し、ぎりぎりまで自宅にいたいと

願ったその女性。しかし生活がままならなく

なった時、入院となりました。

その時、紅葉を迎える季節。

女性の自宅前の大きな紅葉の木が

赤く染まる前でした。

 

時期をみて、自宅まで行き、真っ赤に

染まった大きな紅葉を携帯の写真におさめ、

印刷してフレームに飾り、病室に持って

いきました。

女性は目があまりよく見えなくなって

しまっていたかもしれませんが、両手で

写真をつかみ間近に見て喜んでくれました。

その数日後、亡くなった知らせを受けました。

 

もう行く事が無くなったあの場所ですが、

あの山に通じる道を通る時、あの女性と

家を思い出します。

 

 

 

 

死が身近にあった時代

私が担当している方の年齢は80代から

90代の方が多いのですが、その世代

以上の方の時代、子供が病気などでいとも

簡単に亡くなってしまう時代だったそうです。

 

もう亡くなられた利用者の話で忘れられない

ことがあります。自分の子供を亡くした話。

 

元気に遊んでいたわが子。ある日、急にお腹

の調子が悪くなり病院に連れて行った。

しかし問題なしと言われ帰宅。一時は回復

したかに思えたが急に症状が悪化。数日で

亡くなってしまった。

 

原因がわからないままお葬式。その時に近所

の方が、「亡くなった子供が生前、遊んで

いる途中で喉が渇いて貯めていたお風呂の水

を飲んでいたのを見た」と。原因はそれ

だったのか!!!という思いと、なんで

お風呂の水を飲むのを止めてくれなかった

のか!と。

しかし、亡くなった子供は帰ってこない、、、

近所の人に言うことはなかったけど、

くやしかったと言っていました。

 

100歳近い利用者がしてくださる話。その方は

認知症で同じ話を繰り返す症状があり、特に

昔の話を繰り返します。

子供が小学生になった歳に看病の甲斐なく

亡くなったという部分の下りは、毎回私も

涙が出そうになります。娘さんは同じ話で

申し訳ないと横で苦笑いしていますが。

 

今の時代、衛生面や医療面、栄養面などの

知識や技術が進み、昔ほど人間が死ななく

なりました。

 

亡くなった祖母が生前誇らしげに「私は

8体(8人の子供)持った。しかし一人も

亡くさずに育てあげた。すごいでしょ」と。

半分ぼけている祖母でしたので、その時の

若い私は「へ~すごいことだね~」と

棒読みの返事。

「なんで8人じゃなくて8体という数え方

なのさ。なんか大量生産ロボットみたいだね」

と心でつっこんでいました。

が、今になってそのすごさがわかります。

”ばあちゃん、すごいことだったね~”と

今だったら感情をこめて言えます。

 

認知症の方をお世話している人へ

認知症の方のお世話をしている皆さん、いつもお疲れ様です。

 

大事な人が、見た目はさほど変わらないのに、

言動が変わっていく・・・あんなにしっかりしていたのに、

あんなに元気だったのに・・あんなに・・・

まるで違う人のように感じられる場合もあるでしょう。

 

混乱、不安、喪失感、苛立ち、怒り、落ち込み、、、

これからどんな風になっていくのだろう。面倒みれるのか・・

色々な気持ちが入り乱れて・・

しかし目の前の大事な人は徐々に目が離せなく

なっていく・・

 

孤独な気持ちを抱える時、信頼のおける誰かに気持ちを

話してみてください。親戚でも友人でも近所の方でも。

そしてケアマネージャーに。

 

お住まいの地域で開催されている介護者の会(サロンなど)

があれば、お気軽に参加してみてください。

あなたは一人じゃないと感じられるはずです。

できることをしなくちゃね

70代後半の女性Kさん。背骨の病気で背中が曲がり足が不自由になって

きて歩行器で歩くのがやっと。

しかし2年前まではまだ動けていて車の運転もしていたんですって。

 

1年ほど前から私が担当。最初は厳しそうな表情の方で、とっつきにくい

印象だったのですが、誠意をもって話合いをしていく中で、段々とお互い

打ち解けてきました。厳しい表情はそのまま(笑)もともとのお顔でした!

そんな方が恥ずかしそうに笑う時、ギャップで私の心はキュンとなります。

 

背骨の手術を病院から勧められたことがありましたが、ご主人が反対。

失敗して寝たきりになったら困るからと。本人は「私も手術は考えるけど

主人がそんなに言うから・・」と夫に従っています。Kさんの担当として

ご主人に向き合い、手術に反対する本当の理由は何かと聞きました。

やはりご主人なりにKさんのことを思っての決断。私もKさん夫婦の意向

に沿う決意をしました。

 

背骨の病気の影響で尿失禁しやすい状態にあります。足が不自由なので

さっとトイレに行くことも難しい。肘や肩にも力が入り、あちこち痛みが

あります。

 

そんなKさんのすごい所は、病気を受け入れ、必要以上に落ち込まず、毎日

時間をかけて調理や洗濯などの家事に加え、デイケア以外の日は朝夕、

自分でストレッチや歩行練習など自主練習に取り組んでいます。

「私忙しいの。落ち込んでいる暇はないよ」と笑うKさん。

体調が悪い時は潔くベッドに休む。

 

デイケアスタッフより、デイで尿失禁があったと報告を受けた時、

「Kさん、人前でもらして落ち込んでなかったですか?」と聞くと、

「ごめんなさいね~」とは言っていたけど、すごく落ち込んでいる

様子はなかったとのこと。

 

そうは言ってもやっぱり落ち込んでいるんじゃないの⁈と定期訪問した時、

その時の事を確認したら「あ~そうなのよ~、今度からは紙パンツを

毎回履くことにしたわ~」と過ぎたことと流しているその姿、好き♥と

思いました。

 

私はくよくよ考えるタイプだけど、Kさんは違う。

しかしKさんだって、人前でおしっこをもらして残念だと思っている。

”でも体が思うように動かないから仕方ないじゃない。できることを

しなくちゃね”という前向きな気持ち。私は受け取りました。

 

Kさんは小柄で顔も小顔。なのに、手だけは野球のグローブのように

大きくて関節がゴツゴツしているんです。びっくりする位大きい。

「働いてきた手ですね~」と言うと、「そうなのよ~一生懸命農業を

してきたの~。まっじっとしている性格じゃなかったからよく動き

回っていたんだけど。今はこんなになってしまって、これからどう

なるんだろう」と苦笑いしながら不安を口にしたりします。

 

Kさんとご主人の想いに寄り添い、相談事があるときはすぐに駆け付ける、

そんなケアマネでありたいと思っています。

まっすぐに生きてきた

私が担当している90歳女性のTさん。

担当して数年。Tさんは最初から自分の話を全部してくれるわけでは

ありませんでしたが、毎月の訪問で、信頼関係をもつことができ、

それまでどういう人生を送ってきたのか少しずつ語ってくださるように

なりました。

 

幼い時に両親が離婚。父親と一緒に生活していたが、父親が鉱山の事故に

巻き込まれ包帯ぐるぐる巻きの姿で数日苦しんだ後、亡くなった。

その後は、祖母と父親の姉夫婦のもとにひきとられ生活。叔母は厳しい人

で学校には行かせてくれたが、人使いが荒く、よく家の仕事で働かされた。

「くそばばあ」といつも心に思っていた。しかしそんな、くそばばあでも

いてくれて育ててくれたから良かった。叔母のだんなさんは優しい人で

自分の子供のようにかわいがってくれ、少しでも収入があるとセーターなど

を買ってくれた。しかしそんな優しい人も病気ですぐに亡くなって

しまった。お腹に水がたまって苦しむ姿は子ども心にショックだった。

 

少し大きくなってからは戦争の時代。工場で働いていて、機械音で空襲警報

がすぐには聞こえず気づいて外に逃げ出した時には敵機はすぐ近くだった。

近くの防空壕は、いっぱいだから入ってくるなと言われ、逃げる場所も

ない。近くの溝に転がり身を潜めた時には生きた心地がしなかった。敵機に

乗っている人の顔がはっきり見えた。その位、至近距離で命を狙われて

いた。何とか逃げ切れたが家は空襲で全焼。山手のほうの親戚宅まで歩き、

たどり着いた時には夜が明けていた。

 

このTさん。歳の近い妹がいたそうです。

「ずっと妹と二人、助け合って生きてきた。妹がいてくれたから、親が

いなくてもさほど寂しさも感じずにがんばってこれた。しかし30代の

時に妹が急死。この時ばかりは、生きる気力を無くしたよ」

 

 

今はデイサービスに通うTさん。若い頃から女ながらに土木の仕事、農業、

漁業・・とたくさんの仕事をがんばってきて、相当体を酷使。年齢を重ねて

徐々に歩けなくなり最近は車椅子の状態。認知症は無いけれど、歳相応の

物忘れ、加えて難聴。デイスタッフのケアのミスに過剰ともとれる反応で

「なんで私がこんなことされないといけないの。私はまっすぐ生きてきた

つもりなのに!」と怒ることがたまにあります。かなりの難聴なので、

勘違いも多い。「まっすぐに生きてきたつもり」の言葉にTさんのこれまで

の人生の話が頭をよぎります。デイスタッフと協働し何とかTさんの誤解を

解き、元の生活に戻ります。

 

妹を亡くした後も、波乱万丈な生活をしてこられたTさん。私がTさん

だったら、こんなに気丈に生きていられるだろうか。精神を病んでいない

だろうかと思うくらい。Tさんは一見、普通のおばあちゃんですが、

心を強く持って生きてきたすごい人です。

 

Tさんが体が不自由でも心穏やかに生活ができるよう微力ながら自分の

仕事に集中したいと思う今日この頃です。